益子町上大羽 名稱不明橋

2675年 7月 14日 探訪

 此方は栗生澤と分岐してからの大羽川を遡る事三五◯米程の處に架る橋であります。

 もう見るからに雰圍氣滿點でありますが、實際には如何でせうか。

 では、此方右岸側から見て行きます。
 殘念、銘板は消失して居ります。

 併し細身乍も高く立派な親柱であります。
上部の意匠等、凝つた作りが成されて居りますが、長年に亙り使はれてゐる爲か、滿身創痍と云ふ感じであります。

 嗚呼、混凝土の洗出仕上や意匠等から、戰前物件だらうと推察致しました。
 良く見てみますと、長方形では無く角が取られてゐるのであります。
斯う云ふ形の銘板、未だに見た事が無いでありますし、同樣に斯う云ふ穴自體も御目に掛つた事が御坐いませんので、可也特殊な部類と見て良いのでせうか。

 其と、斜に成つてゐる、やけに綺麗な穴は一體何が如何成つてゐた痕跡なのでせうね。

 と云ひますか、如何して銘板は外されて仕舞つたのでせう。
多分訊く迄も無い理由の樣な氣が薄とはして居りますが。
 嗚呼、殘念、此方もであります。

 併しアレでありますね、銘板が附と云ふ事、且つ消失してゐると云ふ事は、昭和十年前後の物件と云ふ事でせうか。

 と云ひますか、此破壞具合でも鐡筋が露出してゐ無いつて、何か親柱に鐡筋入つてゐ無い樣に見え無くも無い樣な氣がするのでありますが、如何なのでせう。
 併し成程、材木が入つて其處に釘か螺旋で銘板を固定してゐた樣でありますね。

 而も銘板、長方形では無くて角を落して八角形に成つてゐる物だつたのでありますから、此特徴だけでも年代判定ぐつと狹まりますかね。

 今の處は未だ調べませんが。
 高欄の意匠は龜甲模樣に成つて居ります。

 敢て六角形と云はずに表現して見ました。

 左岸側は道路との傾斜を緩和する爲に結構舖裝が盛られて居りますね。

 では左岸側へ移ります。
 本當に惜しいでありますね、銘板が無いの。

 當時としましては手荒くハイカラな橋だつたと思ふのでありますが。
 此方は銘板が無いも結構良い状態を保つてゐる、と思ひきや、上部の飾りが一段消失して居りますね。

 嗚呼、銘板も何で出來てゐたのでせう。
て、多分物資供出で外したのでせうから、何かしらの金屬だつたのは間違無いでせうがね。

 ま、多分に海の藻屑と化したのでせうがね。
 横から見ますと、T字桁でありました。

 地覆の形状等からして、戰前橋で間違無い筈であります。

 橋臺の横に混凝土が盛られてゐるのは何なのでせうか。
 多分でありますが、支承が附てゐ無いので桁の脱落防止の爲に斯う成つてゐるのかなと推察するのでありますが、 實際の處つて如何なのでせうね。

 併し此方、多分當時としましては永久橋として架けられたのでせうから、出來れば此儘ずうつと殘つてゐて呉れると素敵な物件かなと思ひました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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