喜連川町葛城-喜連川 連城橋

2673年 4月 23日 探訪

 荒川に架る國道二九三號舊道、現在の栃木縣道一一四號線の橋であります。
舊く奧州街道時代には木橋が架つてゐたと云ふ事でありますが、きつと江戸時代には斯う云ふ眺めで此橋を見てゐた事でせう。

 まあ由來は宇都宮藩と喜連川藩を結ぶだとか、葛城と喜連川を結ぶからだとか諸説在る樣な事が輕く調ると出て來るのでありますが、手荒く面倒なので關ら無い事に致します。

 不取敢、江戸時代にはもつと低い位置で架橋されてゐたのだらうとは思ひます。

 して、現在の姿は六徑間の橋でありますね。
 葛城側、橋の正面に遣つて來ました。
然し此處は交通量が多い爲、道路脇からの撮影であります。

 ぱつと見に手荒く凝つた意匠の親柱が出迎へて呉れますが、流石城下町の威嚴と云つた處でせうか。
アスハルト舖裝が路盤に載つてゐるのが殘念でありますが、其も長壽命化の爲でせうから仕方無い處でありますね。

 と云ふ事で、右岸側から見て行きます。
 荒川。

 いやあ、此造型は本當に凝つてゐると思ひますよ。
型枠組むのも外すのも大變だつたのでは無いでせうか。

 唯之、何度も何度も自動車が打當つてゐるのでせうね、手荒く痛々しいであります。
特に名板が半分に成つてゐる邊り、一體如何云ふ當り方をしたら斯う成るのでせうか。
 と、其親柱の外側には施工業者の銘板が附られて居りました。
一社は地元も地元、橋の袂に在る會社でありました。

 いやあ、裏側迄もしつかりとした造りであります。
 連城橋。

 實は、元々荒川橋と呼んでゐたのに別な所の橋に其名前が使はれて仕舞ひ、仕方無いので連城橋に成つたと云ふ裏話もちらりと耳に入りました。

 正直、否、面倒なので以下省略。
 高欄は鐵管を二本組合せた型であります。
上下で太さが若干違ふのが特徴でせうか。

 何か下流側の柱が斜めつてゐる物が在つたりと、結構補修されてゐる部分が多いであります。
 桁は此厚さから致しますと、スラブ形式とか單純桁と云ふ物でせうか。

 併し橋脚の姿が正直、餘り見掛無い形だなあと思つたのでありますが、如何云ふ呼稱の形式なのでせうか。

 して、土臺の部分、右岸側の一脚だけ當時の姿の儘で、後は全て補強されてゐる樣であります。
 斯う云ふ具合に、であります。

 では左岸側へ移動致します。
 昭和三十一年三月卅一日竣功。

 日附迄表記されてゐるとは中々に珍しい部類かと思ひます。

 と云ひますか、突込み入れ度い氣持ち、御分り戴けるだらうか。
どちらも「卅」にして措けば窮屈では無かつたでせうに。
 嗚呼殘念、此方は消失して居りました。

 拙依り少し前に探訪された方の冩眞では未だ健在だつのでありますが、其數年の間に何か在つたと云ふ事なのでありますね。
健在でありますれば、此處に假名表記で「れんじようばし」との銘板の附た親柱が在つた筈でありましたのに。

 まあでも一番は、交通事情にそぐは無いから、と云ふ處だと思ふのでありますが、若しかして震災でアレだつたとかも在つたのでせうか。

 何れにしましても、是からも未だ未だ現役で頑張つて欲しいと思ふ橋であります。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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