喜連川町葛城 葛城大橋

2673年 4月 23日 探訪

 荒川を旭橋から下る事一キロ半程に架るのが、現さくら市道K2012號の葛城大橋であります。
今年度(平成廿五年度)依り架替に着工するさうでありますので、見納めと思ひ見に行つて來ました。

 中々に立派な距離の有る橋であります。
 大橋とは云へ矢張り町道は町道。
交通量は推て知るべしなのでありますが、現在は痛みが激しく、大型車兩は通行禁止ださうであります。

 因に橋の諸元でありますが、日刊建設新聞2673年4月27日土曜日の記事に依りますと、現在の橋は昭和四十年に架設された十六徑間のRC橋。
橋長は市が管理する橋梁で最長の約一四○米。
橋脚はパイル形式。
全幅は四.○米(有效幅員が三.四米)との事であります。

 では、此方左岸側から見て行きます。
かつらぎおヽはし。

 流石に昭和四十年共成りますと、現代假名遣ひに成つて居りますね。
とは云へ、「ヽ」を遣ふのは名殘りの樣な氣がし無いでも無いでありますが。

 併し黄色く塗られた銘板が何と云ひますか、實際。

 親柱の意匠は結構凝つてゐると思ひます。
傾斜を附度りとかは、此年代の流行の樣な氣が致しますし、表面に貼られた石が何處と無く石垣を連想させさうな感じであります。
 殘念、此方は手荒く原型を留めてゐ無いでありますよ。
でもまあ、其御蔭で如何云ふ工程を經て造形されたかが分る樣な感じでしありますが。

 因に、拙依り五年程前に訪れた方のブログの冩眞を參考にさせて戴きますと、此方には竣功年度の銘板が附てゐた樣であります。

 まあ其時には既に銘板依り上の部分が消失してゐた樣でありますが、其から五年、一體何が在つて斯う成つて仕舞つたのでせうか。
 其親柱の傍の桁の横には架橋事業に關する銘版が附てゐるのでありますが、子供の惡戲とは思へ無い傷が附てゐるのが何と云ひますかね、 一寸アレぢや無いのかなあと思ふ譯であります。

 以下省略。
 度重る水害に因つて滿身創痍だと云ふ事が良く分ります。
 桁はT字桁と云ふ形式だと思ひます。

 さう云へば、此時代でRCでありましたね。
でありますので、一徑間の長さが短いので増水時に大變だつたと云ふ事なのでせうか。

 まあ、内川と合流した後でありますから水量もアレでしたでせうしね。
 因に此方は初代葛城大橋の橋脚の殘骸であります。

 多分西暦1950年代に架橋されてゐる橋なのだと思ひますが、水害で流出して現在の二代目に成つてゐるのだ、と聞いた樣な記憶であります。

 して、其時に他の橋脚は全て撤去出來たのに、此處だけが何か強固に附てゐると云ふか建つてゐるらしくて撤去出來無かつたさうでありまして、 仕方無しに殘された儘に成つてゐた樣であります。

 でありますが、此も今囘の架替で撤去される運命の樣であります。
 此方は何時の災害時に流失したからだつたでありますかね。

 若干の違ひは在れどちやんとパイル形式で建直されてゐる邊り、此當時は未だ未だ存命可能と云ふ判斷だつたのでせう。
 此部分の橋脚の流失が、葛城大橋に止めを刺した樣であります。

 確か假設状態だと聞いた樣な氣が致します。

 高欄の方、一寸アレなのは、釣人や子供の惡戲防止對策だらうと思はれます。
 件の桁の部分、まあ、一應の安全對策は必要でありますよね。

 扨、高欄でありますが、徑の違ふ鐵管を二本用ひ、且つ傾斜させた意匠であります。

 此傾斜、昭和四十年前後の流行なのでありますかね。

 混凝土の儘の路盤が良い味はいであります。

 右岸側に見える土盛りが新橋へ向ふ部分でありますね。

 では右岸側へ移動致します。
 葛城大橋。

 何か、だつたら高欄も塗つてあげようよと思ふと云ふか何と云ひますか、實際。
 此方側は消失して居りますが、流儀に從へば取附られてゐましたのは「荒川」だつた筈であります。

 併しまあ、橋名だけ殘つてゐると云ふのが偶然なのか何なのか、一寸興味深いであります。
 右岸側から見れば、結構平穩な姿に見えます。
 とは云へ、河川敷に降りて良く觀察致しますと、結構細かい罅が有る爲か、白墨で何か色々と書いて有ります。
 昭和四十年代前後の物件つて、斯う云ふ具合に桁の横の凹凸を無くす樣にされてゐる橋、多いでありますね。
てつきりスラブ形式と云ふのか單純桁と云ふのか、さう云ふ橋のみが斯うなのだと思つてゐたのでありますが、然に非ずでありましたのは良い發見でありました。

 併しまあ、良くぞ大事故も無く持ち堪へてゐた物であります。
架替には成つて仕舞ひますが、冩眞を撮つてゐる時に通りました地元の方を見てゐますと、とても愛されてゐた橋なのだなあと實感出來ました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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