烏山町宮原 境橋

2673年 4月 30日 探訪

 那珂川に架る栃木縣道二九號線の橋であります。

 現在、土木學會選奬土木遺産に認定されてゐる此方"さかひばし"は、皇紀二五九七年(昭和十二年)、烏山町の宮原地區と大澤地區を結ぶ橋の三代目として架橋されました。

 では右岸側から見て行きます。
 境橋。

 素敵な字體でありますし、立派な親柱であります。
 其横には土木學會選奬土木遺産の銘板が取附られて居ります。
 さかひばし。

 「ひ」の字體が何共可愛らしい感じに、さう、丸で雛の樣に見えて仕舞ひました。
 して、此橋の特徴でありますが、途中に斯樣な見晴し臺が片側貳箇所づつ設られて居ります。
 境橋。

 左岸側の親柱は綺麗な状態であります。
 さかひばし。

 其々に字體が違ふのが如何にも手仕事と云ふ感じで素敵であります。

 全てに於いて均衡が取れてゐる方が、逆に不自然だと個人的には思ひます。

 だつて、人間が造り出すのでありますもの。
 とてもハイカラな上路式RCオオプンスパンドレルアアチ橋、何だらう、開腹扁平三連拱橋と云ふ事かな、であります。

 でありますが、正直、有名物件であるが故に別に拙は然して食指が動か無かつたのでありますが、本日、退屈凌ぎで現地へ趣いた處、チラリと見えるアレで俄然興味が湧きました。
 さう、先代(貳代目)の物と思しき橋脚跡が在るではありませんか。
 石積は疎か、土臺の圍ひと思しき木枠も殘つて居ります。

 而も、先代は大正九年に完成した洋式木橋だと云ふではありませんか。
成程確に、尖頭型橋脚は大正頃の特徴でありますかね。

 して、其木橋でありますが、木造下路トラスだつたさうでありまして、當時の冩眞を掲載して居られるサイト樣の冩眞を拜見致しますに、 此等の橋脚跡が在る左岸側の二徑間がさうだつた樣であります。
 其が度重成る水害から現在の橋に架替られたさうでありますが、之だけの立派な橋脚、 而も結構な高さ迄コンクリート成り石積み成りで作られてゐたと思ふとわくわくして仕舞ひます。

 併し先代の橋脚の威容、釣人との比較で御解り戴けるだらうか。
 因に、右岸側の橋臺は良く分りませんでした。

 若しかして、此混凝土の部分がさうなのでせうか。
 然し左岸側には橋臺が殘つて居りました。
岩場を利用した上に、混凝土と石積で出來てゐるのが素敵であります。
而も可也状態が良い儘の樣な氣が致します。

 して、何やら石碑が建つて居ります。
 近附て見て見ました處、何と明治廿九年に建立された日清戰爭の弔魂碑でありました。

 高根澤町寶積寺の西南戰爭で沒した人の墓や、此方の日清戰爭での弔魂碑が現存するのを見ますと、未だ未だ遠い過去では無いのでありますね。

 人間、何時迄も學習せずに同じ事を繰り返すのでせうか。

 と云ふ事は不取敢措いとゐて、土木遺産の素敵な橋と、ほぼ同徑間の木造トラスの痕跡が樂しめる、とても良い物件でありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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