上河内村上田 八丁堀橋

2676年 4月 12日 探訪

 此方は國道二九三號から少し南、丁度消防學校の裏手に在る橋であります。

 最初は斯樣な新興住宅街の樣な處に古い橋等無いだらうと思つてゐたのでありますが、偶々某ストリイトビウで見て居りましたら其らしき橋を發見致しましたので、 今囘の探訪と相成りました。

 まあ、ぱつと見でも戰前物件の樣な感じでありますが、其にしましては幅員がアレな感じでありますので、さう云つた事も含て如何なのか、不取敢此方左岸側から見て行きます。
 昭和十年一月竣功。

 功の字は隱れて見えませんが、まあ恐く工では無く功でせう。

 併し行也核心部分が見られた譯でありますが、文字の大きさも立派でありまして、今でも十分に判讀可能なのには感心致しました。
 上流側は無記名でありました。

 けれども、何か全體的に綺麗過ぎる樣な感じでありますし、混凝土の質感も何か違ふ感じが致します。
 高欄の意匠は、如何にもと云つた感じで古風な佇ひ、且つ戰前物件を感じさせて呉れる意匠であります。

 但し矢張此方側は綺麗過ぎますので、多分に擴幅された上で意匠を合はせる樣に作られたのだと思はれます。

 其だけ潤澤な資金、若くは意匠に對する拘りと云ふか、敬意の樣な物が有つた頃に擴幅されてゐるのかも知れません。
 うん、さう考へますと、矢張此方下流側が當時物でありますね。

 さう云ふ見方もして仕舞爲か、似てゐて非成る物と云ふ感じがし無いでも無いであります。

 では、右岸側へ移動致します。
 はい、新造側は矢張無記名でありました。

 と云ひますか、假令記名されて居りましても、判讀は手荒く困難だつたと思ひます。
 はつちようほりはし。

 手荒く達筆乍も、しつかりと判讀可能な字體が素敵であります。
相變らずの「し」の字體が如何にもと云ふ感じで良いでありますよね。

 して、さう、國交省だつたかの橋梁點檢云々の資料を見ますと、はつちよう橋と成つてゐるのでありますが、之、如何見ても「はつちようほりはし」と讀めますので、 さう表記致しました。

 序に云ひますと、平假名表記の儘だつたと云ふ事も無いでせうから、消失した側の親柱に漢字表記で「八丁堀橋」と有つたであらうと思ひまして、さう漢字表記した次第であります。
 横から見ますと、之はスラブ形式とか牀版橋と云はれる形式でありますね。
而も斜橋に成つてゐる邊、當時としましては結構手間掛てゐる方なのでは無いでせうか。

 して、橋臺を良く見ますと、奧の方で縱に筋が入つてゐるのと、其處から角度が違つてゐるのが見て取れますので、確實に擴幅されてゐるのだと分りました。

 では何時頃擴幅されたのかでありますが、航空冩眞を頼りに致しますと、昭和四四年から四九年の間に、と云ふ處でありました。
多分其以降でありましたら、單成るガアドレイル高欄の物に成つてゐた可能性が手荒く高かつたと思ひますので、良い頃合で擴幅され度のだなと思つた次第であります。

 まあ、交通量も然程増えさうな感じには思へ無い處でありますので、出來れば此儘ずうつと殘つてゐて欲しい物件だなと思ひました。

 當然の樣に、多分誰も歴史的物件だとは思は無いで見てゐるでせうし。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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