河内町中岡本 板賀橋他無名橋五本

2673年 8月 20日 探訪

 先づは此方、前出のしらこうじ橋から九郷半を下る事約五十米程の處に架る橋であります。

 御覽の樣に親柱が四本共に無く高欄のみと成つてゐるのも特徴なのでありますが、まあ、さう云ふ需要の橋と云ふ事だと思はれます。
 其高欄の意匠や航空冩眞等から判斷致しますに、多分しらこうじ橋と同年代と云ふ事で間違ひ無いと思はれますが、 其牀版と云ふか、路盤が混凝土板を敷詰た樣な物だと云ふ事に驚きました。

 斯う云ふ構造つて、もつと簡易的で高欄らしい高欄の無い橋に見受けられる物と思つてゐた物でありますから。

 横から桁の冩眞を撮つてゐ無かつたのが殘念であります。
 御次は上記の橋から二百五十米程下つた處に架る板賀橋であります。

 混凝土桁である事や、其構造の年代的特徴から致しますと、昭和四十年代迄の物の樣に思はれるのでありますが、 高欄のガアドレイルの意匠が現在の物と同一、但し其々の接續方法が若干違ふのでありますが(隣の道路側を見て戴ければ御分りかと)、 其で判斷致しますと昭和五十年前後頃以降と思ふのでありますが、厄介なのは中央に見えるアレであります。
 此銘板の存在を如何捉へれば良いのでせうか。

 因に此方、如何やら上流側のみに取附られてゐる樣でありまして、此方に書かれてゐる事意外不明なのであります。

 材質的に云へば萬年橋やしらこうじ橋と同一でありますし、昭和卅六年の航空冩眞でも"さう"だと云ふ感じでありますので、 若しかするとさう云ふ年代に架橋され、其後安全の爲にガアドレイル高欄が取附られた、と云ふ解釋も出來るのでありますが、 不取敢云へる事は、昭和五十年の航空冩眞では、間違ひ無く此方の橋が架つてゐる樣に見える、と云ふ事であります。
 流石に之は取材不可能であります。

 場所的に云へば、板賀橋から約百五十米程下流であります。
 其處から卅米程、此方も親柱を有してゐる素敵な橋なのでありますが、如何にも判斷が難しい物件であります。

 航空冩眞では昭和廿四年で既に存在してゐる樣にも見えるのでありますが、如何なのでせうかね。

 唯、欄干が鐵管では無く、總混凝土で出來てゐると云ふ點で云へば、昭和廿年代迄の物件だらうとは思はれます。

 橋の位置が隨分と低いのもアレでありますしね。
 此方は壞れて仕舞つたのを補修したのか、片側だけパイルが二本使はれて居ります。
 最後は九郷半用水とは違ふのでありますが、鬼怒川の堤防の傍に在る橋であります。

 此方も親柱の無い橋なのでありますが、可也重厚な造りの高欄に、一體何時頃の物件なのだらうと云ふ疑問が生じました。

 して、航空冩眞を見ました處、昭和廿四年以降卅年迄の間に出來た橋の樣であります。

 成程、高欄の中央の柱に見立た部分は太くされてゐ度りしまして、傳統的な樣式を備へてゐるなと云ふ印象であります。

 亦、手荒く壞れてもちやんと原型に近い樣に補修されてゐる邊、地元で愛されてゐる橋なのだらうなと思つた次第であります。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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