芳賀町祖母井 穴川橋

2675年 6月 2日 2676年 12月 13日 探訪

 栃木縣道六九號線、道の驛芳賀の目前に在る橋であります。
現在では下流側が暗渠状態に成つて居りますが、道の驛が出來る以前は歴とした橋でありました。

 まあ最初に書いて仕舞ますが、五行川の改修と共に五行橋の架替、及縣道の擴幅の爲中央線邊で下流側に桁を附足して擴幅し、 其後道の驛の完成と共に其部分だけ暗渠化した、と云ふ處でせうか。

 線形的には向つて右側の民家寄りを進んだのが元々の樣であります。

 何かまあ、現在では一寸複雜な状態に成つてゐる樣な感じでありますが、結局何處でも其な物でせう、多分。

 と云ふ事で、此方左岸側から見て行きます。
 あなかわはし。

 別體の混凝土銘版と云ふ樣式からしまして、多分昭和卅年代前半頃の架橋なのかなと思ひます。
 と云ひましても高欄が斯樣な具合でありますので、若かしますと昭和廿年代後半とか、まあ所謂西暦1950年代の物件と思つて良い、と云ふ感じでせうか。
 地覆の形からしまして戰前物件では無いと思ふのであります。
洗出仕上では無いと云ふのも、さう思ふ理由でせうか。

 其と、冩眞ではアレでありますが、桁は昭和卅年代迄の流儀に則つたT字桁に見えました。

 では、右岸側へ移動致します。
 えゝと、流石に人樣の屋敷の植込をアレするのはアレでありましたので自重致しました。

 でありますので、實際の河川名、若くは橋の漢字表記、又は竣功年度が書かれてゐたのか如何か、完全に不明の儘であります。

 して、「あなかわはし」でありますから、單純に考へて穴川橋だらうと思ひ漢字表記にした次第であります。

 さう、「あなかははし」では無く「あなかわはし」なのでありますよ。
 彼から一年半、冬枯の時期でありましたら少しは右岸側の銘板が見られるかなと思つたのでありますが、まあ當然の如く無理でありましたね。

 でありますが、光の關係でせうか、今囘は橋の繼目や橋臺が如何成つてゐるのか、くつきりはつきり分るでは御坐いませんか。
 斯うして見ますと、橋臺の位置が結構違ふ物でありますね。

 其と、本當に中央線の部分で附足されてゐるのでありますね。

 勿論斯う云ふ状態でありますから、下流側の親柱の痕跡は皆無であります。
て、其は見て分りますね。
 當然、右岸側も同樣であります。

 併し斯うして見ますと、接ぎ方、隨分と適當な樣な氣が致します。

 多分でありますが、碎いて地覆部分を撤去した爲に斯う成つてゐると云ふ處でせうか。

 さう云ふ點で土木技術の發展的な事が考察されまして面白いであります。

 擴幅側も混凝土路盤の儘でありますから、昭和四十年代迄の物件かも知れませんね。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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