芳賀町西水沼 開運橋

2674年 5月 19日 探訪

 舊水橋村(昭和廿九年迄)の中心部を通る國道一二三號、水戸北街道の橋であります。

 【此處】は斯う云ふ具合でありまして、 一つの複雜な交叉點と云ふ印象なのでありますが、事實澁滯の緩和策としまして直隣にバイパスが最近開通致しました。

 何と云ひますか、御覽の通り橋を渡つて直に直角の交叉點は在りますし、此勾配でありますから見通しが良い筈も無く、難所と云つても過言では無い處だと思ひます。

 まあ、元々はほぼ平らな儘架橋されてゐたのだらうと思ふのでありますが、其處は其、河川改修等に伴ひ現在の姿に成つてゐるのだと思はれます。

 では此方、左岸側から見て行きます。
 開運橋。

 良い名前でありますね。

 併し堤防の上からの道路取附部分を見ますに、路面の盛られ方が凄いであります。
まあ、住宅等が密集してゐる中で良く遣つたと思ひます。

 因に、右岸側に見える木なのでありますが、航空寫眞で確認致しますに、昭和卅年代迄彼の邊は林だつたと云ふ名殘なのでは無いのかなと推察致します。
 野元川。

 斜橋の爲、左右の親柱の形状が隨分と違ふ物であります。

 特に、下側の角が出張てゐるの、手荒く邪魔でせうねえ。
 橋脚は斯う云ふ具合でありまして、右、上流川の歩道橋部分が増築されてゐるのが御分り戴けると思ひます。

 して、道路橋部分は何か補強の金具がびつしりと附てゐる、と云ふ判斷で宜しいのでせうか。
 歩道橋部分は昭和五十年三月竣功であります。
 さうして、歩道橋部分の排水桝は斯うであります。
 多分耐震補強の金具がびつしりと附た道路側の主桁を下から見てみました。

 形式的にはスラブ形式とか單純桁とか云ふ物でせうか。

 併し金具と主桁の角度が合は無い爲か、何か見てゐて目が囘りさうであります。
 高欄は柵に成つてゐる型でありますね。

 其に桁毎に分割されてゐる樣であります。

 と云ひますか、斜め具合と直線的な部分の組合せつて違和感の方が多いであります。

 では、右岸側へ移動致します。
 開運橋。

 此方も兩岸で對稱の銘板の鵜であります。

 嗚呼、斯うして見ますと、親柱から高欄へ續く一本の線の樣な意匠をしてゐたのでありますね。

 何か美しさを感じます。
 野元川。

 嗚呼、銘板は兩岸で對稱でありまして、竣功年度は不明でありました。
 さう、でありましたら桁の横に工事銘板が附てゐる筈でありますから確認出來ると思つたのでありますが、流石に之では無理でありました。
完全に下に降りるのも一寸アレかな共思ひましたし、何しろ買つた許の自轉車から目を離し度く無かつた物でありましたからね、えゝ。呵呵

 と云ひますか、混凝土桁では主桁の横に工事銘板が附てゐる方が先づ無いでありますよね。

 して、輕く調べた結果、多分でありますが、竣功は昭和四十一年以降四十三年未滿だと思ふのであります。

 何と無く昭和卅九年でも現在の姿の樣に思はれるのでありますが、彼の木が立つてゐる邊の林は未だ現存してゐた樣でありますので、其當時は其以前、 多分戰前からの物件其儘だつたのでは無いかと思はれます。
さうして、一つの資料に當つたのでありますが、昭和四十一年に野元川が増水し、開運橋が陷沒したと云ふ資料が有りました。

 と云ふ事は、河川改修にも伴ひ、今迄見て來た橋と同時期に架設されたと見て良いのかなあと云ふ感じであります。
確に、此高欄や橋脚の意匠等は昭和四十年前後頃に多い物の樣に思はれますから。

 併し路盤は弧を描いてゐるのに、主桁は眞直斜に渡されてゐる樣で、其が横から見て取れるのが面白いであります。
 最後に排水桝でありますが、橋自體の勾配の排水性を考慮してか、斯う云ふ具合に小さく可愛らしい大きさでありました。

 其と以前からの疑問だつたのでありますが、農協が在る處つて一寸何か違ふと云ひますか、元々は違ふ物件だと云ふ印象を感じてゐたのであります。
其が、若かして舊水橋村の役場が建つてゐた場所だつたのでは無いのかなと云ふ感じに、ふと今囘寫眞を整理しつつ思つたのであります。

 して、開運橋と云ふ命名でありますが、直傍の乘合バスの停留所が水橋と成つてゐる事から、元々は水橋だつたのが、水難を機に架替る事に成り、 ならば運が開ける樣にと云ふ願ひから命名されたのかなあ、等とふと思つたのでありますが、多分さう云ふ事では無いでせうね。呵呵

 以上、御附合有難う御坐いました。

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