芳賀町芳志戸 手彦子橋

2673年 10月 29日 探訪

 【芳賀町芳志戸 久津方橋】 依り一キロ程上つて來ました。
此方は手彦子橋と云ひまして、矢張端正な橋らしい橋と云ふ形をして居ります。

 まあ此處迄の途中に金井橋と云ふ、多分に同世代の橋が在つたのでありますが、其方の状況は後程御負に記しますが、 殘念乍もう斯う云ふ具合の橋だつた、と云ふ状況でありまして、一足遲かつたと云ふ具合でありました。

 まあ、ぐうぐるの寫眞でも多分にさう云ふ姿だつたと確認出來ましたので、潔く諦ると致しませう。
 と云ふ事で此方手彦子橋でありますが、親柱の逆傾斜度合、此處に極まれりと云ふ感じであります。
もう何と云ひますか、一氣に衰退したのも納得と云ふ感じの意匠であります。

 但し其意外は至つて普通の橋なのでありますが。

 と云ふ事で、此方右岸側から見て行きます。
 手彦子(テビゴシ)橋。

 讀みが難しい名前だなと思つたのでありますが、如何やら此方の地區、日本昔話にも出て來る由來の有る處だつたのでありますね。
「手樋越」で調べますと其概要が出て居りました。

 併し、銘板迄破壞する程の打當り具合、一體何が打當つたのでせう。

 衝突した方も、其相當の損傷を負つたのでは無いかと思ふのでありますが。
 五行川。

 此デコ具合、御分り戴けるだらうか。
水道設備の爲の立入禁止の柵が大凡垂直でせうから、其張出具合が御分り戴けると思ひます。

 と云ふか、普通誰も其な水道管の上を態々歩く奴ゐ無いだらうて。

 話は戻して、普通に考へて此意匠、不可抗力以外にも自重で倒壞しさうだとか誰も思は無かつたのでせうか。

 因に此處、下流側の方から寫眞を撮らうとした時足元に大きな縞蛇さんが居り、危く蹈みさうに成つて仕舞ひ、御免よと言つて避けて來ました。
 横から桁を見ますと、多分にT字桁と云ふ形式かと思はれます。

 其と、此方も竣功年を示す物は無かつたのが殘念であります。
 後日、と云ひつつ約三年後に再訪致しまして、下から桁を見て來ました。

 はい、T字桁でありますね。

 其と氣附たのでありますが、主桁の外側の部分に四角い窓を埋た樣な部分が在るのでありますが、如何やら補強の横棒、棒と云つてはアレでありますが、 其方を通すと云ふか、充填した爲の跡だつたのでありますね。
 して、高欄の具合から推察しまして、多分昭和四五、六年頃の架橋でせうか。
下側の鐡管の位置が一寸低目でありますから。

 とは云へ、餘り下過ぎ無いと云ふ點から致しますと、昭和四五年で正解と云ふ處でせうか。
 排水桝は丸形でありました。

 では左岸側へ移動致します。
 手彦子橋。

 此方の親柱は良い状態を保つた儘の樣であります。

 して、矢張左右兩岸で對稱の銘板の樣であります。
 五行川。

 河川改修前の五行川の流れの名殘が、眼前に寫つてゐる小さな森の邊の樣であります。
さうして、其處が傳説の地の樣でありまして、今でも其當時からの風習が行はれてゐるさうであります。

 併し、何と哀れな親柱でせう。
針金に據り、何とか延命されられてゐると云ふ有樣であります。
 何と云ひますか、頭でつかちだから餘計にさうなのであらうと思ふのであります。
人間で云ふ文武兩道では無いけれど、何事均衡が取てゐ無いと遺憾と云ふ見本の樣でありますね、多分。

 高欄の柱の鐡筋の入り方が成程、勉強に成ります。
と云ひますか、鐵筋を組のが些か表面に近過ぎたのでは無いのかなと云ふ氣がし無いでも無いでありますが、さう云ふ大らかな時代だつたと云ふ事でせう。

 まあ、出來れば何時迄も此姿の儘架つてゐて呉れと良いなと思へる物件でありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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