今市市栗原-藤原町高徳 中岩橋

2674年 9月 30日 探訪

 鬼怒川に架る、國道一二一號線の舊々道の橋であります。

 今市市と藤原町に跨る橋なのでありますが、多分に藤原町の部分の方が多いかなと思ひ、今囘藤原町の物件と云ふ事に致しました。

 扨、以前には國道の下り車線として使はれて居た筈でありましたが、何か、現在は歩道橋として使用されてゐるとの情報でありますが、皇紀二六七四年九月現在、 通行止にしての改修作業中でありました。

 して、今囘の此中岩橋でありますが、檢索して調べました處、昭和十年架設のソリツドリブアアチ橋と云ふ事でありますが、調べますと、 如何やら此位置では二代目か三代目との事でして、以前は木橋だつたと云ふ事の樣であります。

 其と、「中岩橋」で畫像檢索して戴けると分るのでありますが、架橋當時は上部にも綺麗なアアチが架つてゐた、とても綺麗な橋だつた樣であります。
何故アアチが無く成つたかと云ひますと、戰時中の物資供出の爲ださうであります。

 因に、上り車線側は昭和四三年だか四四年頃の架設の樣でありますが、普通の鐡桁橋なので「ふうん」と思ふ程度で寫眞は一枚しか撮りませんでした。呵呵

 では、丁度晝時で何の作業もしてゐ無かつたので、右岸側から見て行きませう。
 中岩橋。  昔の繪葉書の畫像を擴大して見たのでありますが、如何やら此親柱は元々の物では無い樣であります。
姿形が全然違ひましたから。

 多分、新橋が出來た時、二本で一つの橋と見做す爲同時に作られた物だらうと推察致します。

 銘板だつて新しさうでありますものね。
 横から見ますとほら、橋臺部分との位置關係が違ひますものね。

 でも、後年に成つてから附られたであらう親柱の意匠は凝つてゐるのであります。
眞正面から見ますと、單成る四角柱なのでありますが、後側が斯樣な意匠に成つて居りまして、結構獨特な意匠では無いかと思ひます。
 へえ、斯う云ふ具合に成つてゐるんだと云ふ感じでありますね。

 多分之、高欄が現在の物にされる時にでも大々的に補修入つて居りますよね。
地覆の部分等明かに違ひますし、見えてゐるのは異形鐡筋でありますもの。
 中岩橋。

 新橋側の親柱でありますが、何と此方の銘板も中岩橋と成つて居りました。
普通何方かが河川名だと思ふのでありますが、之は如何云つた譯でなのでせうか。

 併し面白いでありますね、舊橋側が黒色で、新橋側が朱色にしてゐるとは。
 其な此なで堂々と舊橋を渡るのはアレでありますので、當然新橋を渡り乍左岸側へ向つたのでありますが、其時下流側を眺めました處、如何にも古さうな堰が見えました。

 拙全くと云つて良い程、此存在に關して下調べをしてゐ無かつたのでありますが、如何やら道谷原取水堰と云ふらしく、 大正九年に出來た粗石混凝土構造の重力式混凝土堰堤ださうであります。

 が、何か、其だけでは無い構造物が在るのでありますが。
 之は如何見ても橋脚でありますよね。
而も立派な石積の。

 之つてきつと明治期の物でありますよ、ねえ。
徑間も手荒く短いでありますし。

 後、手前に見える堰の石積も手荒く素晴らしいでありますね。
 其右側の二つも同樣に、とは違ふのでせうか。

 此方は折て斯う成つたのでは無く、何方かと云ひますと、元々斯うだつた樣に見え無くも無い樣子であります。

 して、混凝土に穴が開いてゐる樣な感じから、此方側は木橋だつたと云ふ事でありますかね。
まさか途中から違ふ構造だつたと云ふ譯でも無い樣な氣も致しますし、だからと云つて石積の橋脚とは徑間が合は無い樣な感じでもありますので、 如何云ふ事なのか少し調べて見る必要が有りさうであります。

 と云ひますか之、全體的に近くで見てみたい感じであります。

 では左岸側へ移動致します。
 まあ不取敢、之が鬼怒川の中岩の上に載る二径間の拱橋であります。

 何か桁の下の部分、支へる部分が円を描く樣に出てゐる部分、ストラツトと云ふのでせうか、が如何にも古橋と云ふ感じであります。
 鬼怒川。

 さう、斯うして見ますと、きちんと土臺も作られて載つて居りますよね。
 鬼怒川。

 で以て此方、下手糞な冩眞でアレでありますが、土臺其物自體が違ふと云ふ感じであります。
 此排水桝も當時物では無いでありますよね、多分。
と云ひますか、當時物でありましたら手荒く感激なのでありますが。

 まあ一寸、適當な下調べしかしてゐ無かつた物でありますから中途半端感は否め無いでありますが、現役の戰前物件が見られたのは嬉しかつたであります。

 其と改修中の爲に、斯うして牀版の構造物が見られたのも良い收穫だつたでせうか。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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