2677年 3月 7日 探訪
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此方は
【馬頭町盛泉 大黒橋】
依り三キロ程東進した處、押川に架る國道四六一號舊道部分の橋であります。 古びた十四噸規制の標識や全體的に凝つた意匠等から、可也の年代物件なのは想像に難く無いでありますが、其實は如何な物でせうか。 其では此方、左岸側から見て行き度いと思ひます。 |
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押川。 之は白御影石なのでせうか。 其共、後年に成つて銘板に當る部分を白く塗つただけなのでせうか。 不取敢一寸讀み辛く成つてゐるのが殘念でありますが、まあ、年代物と考へますれば此な物なのでせう。 親柱の意匠は手荒く凝つて居りますね。 笠石部分の意匠も含め、相當な物だと思ひます。 其に何しろ、表面が洗出仕上と云ふのが確實に昭和初期迄の物件と主張してゐる感じであります。 |
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かねさはゝし。 嗚呼、正假名遣ひが良いでありますね。 何と云つても「ゝ」を遣つてゐる處が素敵であります。 若干親柱が外側を向てゐるのは線形を考慮しての措置でせうか。 |
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高欄の意匠、と云ひますか、造形も手荒くモダアンであります。 まあ戰前物件と考へますと、良くぞまあ物資供出で鐵の部分が徴收され無かつたなあと感心するのでありますが、其を取つて仕舞と安全面に手荒く不自由して仕舞と云ふ趣旨だつたからでせうか。 其共、餘目に附か無かつた處だつた、と云ふ事なのでせうか。 |
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斯うして白黒にして見ると、當時と餘變ら無い風景でせうか。 では右岸側に移動致します。 |
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昭和三年十一月竣功。 をゝ、矢張戰前物件、而も昭和一桁物件でありますか。 して、航空冩眞で見ますと、九十年代初頭頃迄は現役だつた樣でありますので、さう考へますと可也良い状態を保つてゐる橋なのでは無いでせうか。 一つ殘念なのは、路盤にアスハルト舖裝が盛られてゐる處でありますが、其許は長壽化の爲に仕方の無い事でありますね。 |
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金澤橋。 何と手荒く達筆な字體でせうか。 全てが素敵な崩字の樣でありまして、ぱつと見には直に判讀出來無かつた位であります。 之は文字を彫る人も結構大變だつたのでは無いでせうか。 でもまあ、斯う云ふ字を書け度ら素敵だらうなと思つた次第であります。 |
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横から見ますと、三徑間の、之は先づ間違無く混凝土T字桁だと思ひます。 中間部分と兩岸部分の桁長が違ふのも特徴でせうか。 其にしましても地覆部分と主桁に繋がる柱の下の部分、手荒く藝術的でありますね。 斯う云ふ意匠、他では見た事無いでありますよ。 |
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して、左岸側の橋臺は巨大な岩の上に造られて居りまして、成程、架橋の地の利に適つてゐるのだなと感心致しました。 さう成りますと、先代橋は如何だつたのかなと思ふのでありますが、其痕跡は皆無でありました。 |
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再び左岸側からでありますが、橋脚の型枠跡が如何にもと云ふ感じで素敵であります。 まあ其以上にアレなのでありますが、橋脚の下の部分だけ尖頭型に成つてゐるのが手荒く謎であります。 而も多分に、之は後年に成つてからの補強と云ひますか、増水した時の對策で後から作られたのでは無いでせうか。 何と無く、型枠の感じからしましてさう感じました。 而も多分、竣功後然程經つてゐ無い頃では無いでせうか。 何しろ、尖頭型でありますから。 |
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而も下流側迄一體では無く、下流側も上流側に向つて同樣に成つてゐるのが不思議と云ひますか面白いと云ひますか、さう云ふ感じであります。 して、まあ、何時迄も殘つてゐて欲しい物件だなと思つたのでありますが、如何やら此方「いばらき100名橋」の一つに選ばれてゐる樣でありますので、 今後共に安泰な物件なのだなと云ふ感じであります。 まあ、良い物見られたなと云ふ感じでありますかね。 以上、御附合有難う御坐いました。 |