馬頭町大山田下郷 和田橋

2675年 10月 19日 探訪

 此方は 【馬頭町大山田下郷 丸山橋】 依り四百米強程上つた處に架る橋であります。

 ぱつと見には年代的に大凡の推定は出來さうでありますが、其實如何でせうか。

 多分でありますが、渡河した先の状況から、線形改良と架橋位置の變更もされてゐる樣な氣がし無いでも無いでありますが、さう云ふ點も含て、此方右岸側から見て行きます。
 和田橋。

 彼の頃は、とか云は無いでありますが、如何云つた意味合での命名なのでせうか。

 親柱、と云つても橋臺側に附てゐるのでは無く、桁の上に造られてゐる樣でありまして、高欄と一體と成つて居ります。
 武茂川。

 此方は親柱の上の飾りが殘つて居りました。

 多分斯う云ふ具合でありますと、一連の武茂川の橋の親柱と何處と無く共通の意匠でありますから、昭和四十年代の架橋では無いかと推察致します。
 排水桝。

 何か、既製品の部品を持つて來て附た樣な感じであります。
 高欄の意匠でありますが、上下日本の鐵管を使用してゐる形であります。

 して、柱の斜具合等、何處と無く 【馬頭町小口 大平下橋】 に似てゐる感じであります。

 では左岸側へ移動致します。
 和田橋。

 兩岸で對稱の銘板でありますね。

 して、銘板の意匠が如何にもな年代的特徴であります。
 武茂川。

 結局、親柱上部の飾りが殘つてゐたのは一本だけでありましたか。
 横から見ますと、之はT字桁で良いのかな、若くはI字と云へば良いのでせうか、さう云ふ二徑間の橋であります。

 橋脚は一瞬尖頭型かと思ひましたが、別段尖つてゐる譯でも無ささうでありますので、經費削減か何かで簡略化されてゐる意匠なのでせうか。

 多分さう云ふ事とは違ふ樣な氣も致しますが。呵呵
 して、氣に成りますのは此右岸側であります。

 如何見ても上流側へ囘り込む樣な姿に見えますので、多分舊橋はも少し上流側に架橋されてゐたであらうと思つたのでありますが、現地では其痕跡が分りませんでした。

 して、歸宅後に航空冩眞で解を求めたのでありますが、矢張如何やらも少し上流側の架橋で正解だつた樣であります。

 さうして、現橋が架橋されたのは、昭和四四年以降五十年迄の樣であります。
若かしますと、其時に舊橋の痕跡は消失してゐるのかも知れません。

 まあ、中々に面白い物件でありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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