馬頭町健武 舊藤澤橋跡

2675年 10月 5日 探訪

 此方は 【馬頭町馬頭 古館橋】 依り武茂川を直線距離にして約一キロ程上つた處に架る、否、架つてゐた橋の跡であります。

 何か痕跡が在るか如何か、不取敢左岸側から見てみたのでありますが、右岸側には橋臺が親柱と共に殘つてゐるのが確認出來ました。

 と云ふ事で、右岸側へ移動して見る異に致します。

 因に、地名の健武は「タケブ」と讀む樣であります。
 親柱に銘板、若くは何かしら文字が彫つて有るかと期待したのでありますが、殘念乍無記名でありました。

 と云ひますか、此方側からでは親柱が殘つてゐると云ふ事は分り難いであります。
 勿論右手側も御覽の有樣でありまして、同樣に無記名でありました。

 轉落防止の爲に設置されてゐるガアドレイルは古三型でありますね。
と云ふ事は、昭和四八、九年頃に塞がれたのでせうか。
 まあ尤も、地元の方以外はほぼ通ら無かつたでせうから、轉落の心配は結構少かつたのでは無いかと推察致します。

 して、左岸側に見えます彼の電柱に向つて架橋されてゐた樣であります。

 扨、では何時頃架橋された物件なのかと云ひますと、航空冩眞で確認致しますに、昭和卅年代、昭和廿三年以降昭和卅八年以前迄の間でありますので、 親柱の意匠から考慮致しますに、多分昭和卅年代で確實なのでは無いかと推察致しました。

 して、六徑間の橋でありましたのが昭和五十年の航空冩眞で確認出來ますので、橋自體は若かしますと木橋だつたのでは無いでせうか。
之だけの川幅、昭和卅年代の混凝土桁橋で六徑間は無いだらうと思ひますし、川牀に一切橋脚の痕跡が無い事から、さう云ふ具合に推察した次第であります。

 まあ、さうだつたと致しましても、昭和最終期頃迄現役だつた樣でありますから、假令木橋では無く混凝土橋だつたと致しましても、 十分に其役割は果してゐたのでは無いでせうか。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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