河内町東岡本-高根澤町寳積寺 陸羽街道跡(所謂國道四號ノ舊々道ニ當ル道)

2674年 10月 20日 探訪

 【現在地】

 右手に見えますのは白鬚神社であります。

 此方陸羽街道、現在の國道四號線でありますが、舊街道筋なら神社の前を通つてゐたのは當然と致しまして、明治時代の地圖を見ますに、 現在とは鬼怒川の渡河地點も道筋も隨分と違ひますので、今囘は其殘骸が未だ在るのかを探索致し度いと思ひます。

 多分でありますが、正面奧、木々が開けてゐる處が舊街道筋で、其處から眞直此方の神社前を通つてゐたのだらうと推察致します。
 【現在地】

 さうと成りますと、此方が多分附替に成つた部分では無からうかと思ふのでありますが、 現在の鬼怒川の兩橋梁や東北本線の跨線橋へ向けての土盛で、此近邊の痕跡は期待出來さうに有りません。
多分。
 【現在地】

 一旦渡河致しまして、東岡本側へ遣つて來ました。

 現在では下線が築堤を上りつつ左右に折て鬼怒橋に向ひますが、當初は此儘眞直鬼怒川へ向つて通つてゐた樣であります。
 【現在地】

 さう、此處がオリヂナル陸羽街道、國道四號線(國道制定當初は六號)であります。
 振返りますと、ちやんと路盤だつたであらう部分は殘つて居りました。

 又、電柱が示す通り、此處が道筋だつたであらう事は間違ひ無いでせう。
 斯う云ふ具合に小さな側溝が在るのもらしい處であります。

 足元を氣にせず歩いて居りますと、迂闊にも溝に嵌りさうに成りました。

 まあ、嵌つた處で長靴でありますから全く問題無かつたのでありますがね。
 して、まあ、今と成つては狹いと云はざるを得ませんが、明治當初としますれば、流石、可也廣い部類では無いでせうか。

 之、間違ひ無く他の街道の倍程は廣いでありますし。
 其でまあ、當時は此處迄堤防は高く無かつたでせうから、地圖を參考に致しますと、此儘眞直鬼怒川本流の方向に向つてゐた樣であります。
 現在の堤防上から當時の渡河地點方向を望みます。

 渡河地點は、大凡現在の國道四號の下線と東北本線の下線の中間程度では無いかと推察して居ります。
 【現在地】

 さう、大體此邊から渡河してゐたと思はれますが、痕跡は當然の樣に御坐いません。

 當時の地圖には疎いのでありますが、多分木橋の假橋の樣な物で渡つてゐたのでは無いかなあと思ふのでありますが、如何なのでせう。

 其はさうと、有名物件ブルウスカイの眞正面でありますね、此處。
丸で廢の聖地の樣であります。呵呵
 對岸、寳積寺側は斯樣な具合で當然の如く痕跡は確認出來無いのでありますが、東北本線の上線側、トラスに成る前の一徑間に短い桁橋の部分が在るのであります。
若かしますと、其下を陸羽街道が通つてゐて線路を横斷してゐたのかも知れません。

 其先の平場、確認し度くても、正直何共微妙なのであります。
 【現在地】

 地圖上では道が線路の傍迄在る樣なのでありますが、此方如何見ても個人宅の敷地の樣でありますし、且つ藪化してゐる樣でもありますので、まあ、 さうだつたのだらうと云ふ事で斷念致しました。

 して、地圖で見て戴ければ一目瞭然なのでありますが、當時は二つの建物の間を拔けて、一本筋で描かれてゐる邊で水路と云ふか小川を渡つてゐた樣であります。
が、當然現在では消失してゐると云ふ事でありますかね。
多分。

 と云ひますか、之で堂々と入つて行く程拙は人非人で御坐いません。
 でありますので、諦て素直に四號線に戻ろうとした時に、若や之では、と云ふ道を發見致しました。

 電柱から左手は多分消失してゐるのだらうと思ふのでありますが、右手、黄色い廢車體の邊つてさうではありませんか。

 と云ひますか、電柱から左側、彼の畦道の樣な部分がさうだと云ふのでせうか。
 黄色い二代目ライトエエス、若くはダイハツデルタの置いて在る處に續くのは、ほぼ間違ひ無く陸羽街道其物だと思ふのであります。
 新しい住宅が建つてゐる邊は少し原型を留めてゐ無いかも知れませんが、此方の側道部分と合流する迄は、ほぼ當時の儘殘つてゐる見ても良いかも知れません。
 して、現在の路盤と合流する爲に改修されて仕舞つて居りますが、之が陸羽街道の痕跡だつたと云ふ事で良いのだらうと確信致しまして、今囘の探索を終へました。

 但し彼の電柱から先の畦道的な部分は再訪が必要さうでありますね。
若も橋が殘つて居りましたら大變な事でありますから。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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