矢板市木幡 初期ノ陸羽街道跡

2674年 3月 18日 探訪

 【現在地】

 去年の八月に遣つた 【陸羽街道】の氣に成る小路、 明治時代の地圖を見て居りましたら、矢張初期の陸羽街道だつたと云ふ事が判明致しましたので、再び遣つて來ました。

 まあ、今に成つて寫眞を見返して見れば電柱の竝びで"さうだ"と判る筈でありますのに、其處は其、矢張暑さの所爲で判斷が鈍つてゐたと云ふ事だつたのでせう。
多分。
 して、之が今囘の寫眞であります。

 斯うして見ますと、現道が内川を越えるに當り、堤防の分可也土盛されてゐるのだと云ふ事が分ります。
 ほんの僅かの距離でありますからさつさと行き度いと思ひます。

 未舖裝部分からが本來の部分と云ふ事でありますかね。
 電柱は辛うじて道路用地に建つてゐる、と云ふ處でせうか。
 内川の渡河地點に向ふ爲右に折ます。
 但し、直に内川の堤防にて寸斷されて終つて仕舞ひます。
 渡河地點邊からの眺めであります。

 眞正面に渡河、では無く、今の橋の方に向つて架橋されてゐた樣であります。

 して、今の橋の桁が乘つてゐる邊の高さの堤防も、當時は無かつたのでは無いのかなあと推察致します。

 さう、ぱつと見に三段に成つてゐるのが御分かり戴けると思ひますが、多分、其一番下側の堤防が在つたか如何かと云ふ處では無いでせうか。
 さう考へますれば、此處の舊線形の膨み具合でありますが、河川に對して直交する譯でありますから、納得なのであります。

 まあ、此處に關しましては舊橋でも使はれて居りまして、現在の橋に架替に成る時に土盛され、現在の高さにされてゐる筈でありますので、 三世代か四世代に亙つて使用されてゐる部分と云ふ事でありますね。
多分。
 何れにしましても、不取敢舊道部分が形だけでも殘つてゐたのは良かつたなと思ひました。
而も、變に案内板とかも建てられず、多分當時其儘の姿でと云ふ處が、であります。

 と云ふ、簡單な報告でありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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