烏山町向田-野上 國道二九四號ノ前身ニ當ル道

2674年 11月 4日 探訪

 【現在地】

 まあ折角でありますので、此儘國道二九四號との合流地點迄、古の街道を進む事に致します。

 して、此處で右折して現國道二九四號に出る迄の部分は未踏破なのでありますが、まあ、其は機會が御坐いましたらと云ふ事で、今後の課題であります。

 某ストリイトビウで入口だけ見ますと、幅員的にも正に當時物と云ふ感じで素敵な雰圍氣でありました。

 と云ふ事で、不取敢此方を進みます。
 此耕作地との段差が堪りません。

 其に植木が素晴しいであります。
 間も無く江川の渡河地點でありますが、此處では段丘の下側を進む樣であります。
 中々に良い味はいの幅員減少の警戒標識であります。
愈々期待出來る幅員に成るのでせうか。

 して、右手に側溝が向つて居りますので若かして舊線形部分か共思つたのでありますが、如何やら違ふ樣であります。
 狹く成りました。

 是ぞ舊來からの街道と云ふ感じで素晴しいであります。

 して、之多分輕トラで一杯一杯では無いかなと云ふ感じの幅員であります。

 因に、眼前に架る橋は瀧川橋で、昭和五一年三月竣功であります。
さうして、ずうつと渡河地點は明治の世依り不變の樣であります。
 瀧川橋を渡つた後の眺めであります。

 さう、右前方に見えるガアドレイル、彼方に向つて進んで行くのであります。
 川沿に進む何て、結構粹な風景であります。

 江川はも少し上流へ行きますと、龍門の瀧が御坐います。

 して、道は間も無く右に折ます。
 右折致します。
 良い街道風景であります。

 此道が圃場整備や區畫整理で消失し無かつた事が素晴しいであります。
 扨、烏山の街へ向て登り始めます。

 が、此勾配が當時の儘なのか如何かは不明であります。
 【現在地】

 此方の勾配も中々でありますよ。

 勿論自轉車何か乘つてられませんで押歩きであります。
 現在の國道二九四號が見えて來ました。
 【現在地】

 扨、眼前に見えて居りますのは現國道二九四號であります。

 さうして、此方の道も現在は右に折てから國道に接續する樣に成つて居りますが、明治時代の地圖とはまるで違ふ線形であります。

 さう、もつと直線的に街中から降りて來て、此邊で桝形に成る樣な道筋の樣に描かれてゐるのであります。

 と成れますれば、もう御分り戴けるだらうと思ひます。
 さう、左折の此方側が元々の線形だと思ふのであります。

 其で以て、もうさうだつたと云はん許に主張する物が左手に三個竝んで居ります。

 一番左手、聖徳太子碑でありますよ。
而も裏側を見ました處、大正二年四月一日建立であります。
 次で眞中の石碑でありますが、御馴染馬頭觀世音であります。
之が何と明治八年二月建立と、十九世紀物件でありますよ。

 面白いのが、干支の"亥"も書いてゐる事であります。
之は江戸時代頃からの風習の名殘でせうか。

 して、右の大黒天でありますが、
大正十三甲子年"判讀不明"月吉日再建と成つて居ります。

 再建と云ふ事は、其以前に建ててゐた物は何時頃の物だつたのでせうか。

 多分でありますが、此年代頃が今の國道側に道が附替に成つた頃なのでせうか。
其に伴ひ大黒天の石碑が何等かの理由で消失し、再建の運びと相成つたのかなと推察する次第であります。
 勿論、現代的な施工で此邊は幅員が大幅に減少してゐるのでせうが、其でも當時の道が辛うじて殘つてゐるのが素晴しいと思ひます。
 ほら、實に素晴らしい線形ではありませんか。
 因に、現道の方の接續は又何と云ひますか、酷道とか險道と云ひ度い素敵さであります。
 して、其分岐點に道標が建つてゐるのでありますが、建立年は不明で、右と左だけは讀めるのでありますが、何か、多分平假名だと思ふのでありますが、 如何にも達筆過ぎて拙には判讀不能でありました。

 普段昭和十二年の廣辭林を愛用して居りますのに、何共御恥づかしい限りであります。

 とまあ、斯う云ふ感じで烏山の街に向つて居た樣であります。

 以上、御附合有難う御坐いました。

戻る