河内町上田原-宇都宮市大曾二 田原街道舊々道 【其一】

2673年 11月 19日 2674年 6月 2日 探訪

 【現在地】

 以前に遣りました此方、 【上河内村中里-宇都宮市馬場通四 栃木縣道六三號線 通稱田原街道舊道】【其三】の一番最後の地點。
元祖道との分岐點と書きましたが、今囘は愈々此方、元祖田原街道と云ひますか田原街道舊々道と云ひますか、 まあ今囘は田原街道舊々道と云ふ表記に統一致しますが、此方の探索記録であります。

 大概に於て二股分岐は新舊道の分岐點である場合が多いのでありますが、昭和廿二年の航空寫眞だけでは追跡出來ず、如何にか古地圖を頼りに出來無いかと思案してゐたのであります。

 處が、最近に成りネツト上で十九世紀からの地圖と見比べられるペイジを知りまして、其處で田原街道を辿つて居りました處、やつと元々の道筋が分つた次第であります。
して、此場所をして納得と同時に、現存してゐる部分が多い事にも驚きました。

 さうして、其が今でも明治時代は疎か、江戸時代や其以前の人々と同じ風景が見られてゐるのかも知れ無いと思ひますと、感激も一入であります。

 と云ふ事で、早速參りませうか。

 嗚呼、因に此方の寫眞はちやんと別な日に撮つて來た寫眞でありますよ。
 まあ何て事は無い住宅街の道路に見えますが、多分之は大正時代頃に擴幅されてゐる、と云ふか住宅地に造成された時にでも復擴幅されてゐるのだと思ひます。

 因に、地圖を參考に致しますと、明治期依りも大正期の方が廣いと云ひますか、滑らかな感じに描かれてゐる感じでありますので、 何度も改修はされてゐると云ふ事だらうと推察致します。
 多分でありますが、此道筋も山田川の氾濫原の際邊を進む樣な位置なのだと思ひます。

 標高的に五米程道の方が高い樣でありますし。
 して、昭和四十年代後半に成つて増設された田原中學校の運動場に一旦分斷されて仕舞ます。
 【現在地】

 でありますので、迂囘して再出發であります。

 ずつと細かく左右に折てゐるのが、古からの舊街道の其らしい雰圍氣を感じられる事と思ひます。
 兔に角集落内はずつと斯う云ふ感じであります。
 多分、藏が建つてゐる御屋敷は昔から續いてゐる家なのでせうね。
 して、栃木縣道七三號線との交叉點であります。

 左手に青看が見えると思ひますが、此處からと云ふか此處迄が、栃木縣道六三號線バイパスが完成してゐる處であります。
 栃木縣道七三號線との交叉點を過ぎて進みます。

 明かに幅員が狹く成つて居りますが、きつと之が元々集落内(舊 田原村新谷地區)の道の廣さなのでせう。

 新谷(讀み不詳)と云ふ名稱は、乘合バスの停留所に殘されてゐる樣であります。
 懐しい樣な風景と云ひますか、良い感じであります。
 流石に住宅が出來た處は幾分か擴幅されてゐるのでありますね。

 自動車の爲にだと思ひますが。
 さうして集落を拔ますと、現田原街道のバイパスに分斷されて居りまして、一寸だけ消失してゐるのであります。

 右手の田圃傍、水路の部分迄が原型でありますかね。

 【其二】に續く。

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